4年に一度のワールドカップのためか盛り上がりに欠ける今年のウインブルドンですが
錦織選手が快挙達成ですね。
今までウインブルドンは4大大会で唯一相性が悪く、最高成績はベスト16(2014,2016)でした
2014年ではラオニッチに及ばす、2016年はチリッチ相手に途中棄権でしたね。
同じ島で第四シードのズベレフが敗戦したことも多少の影響はあるでしょうが、
ベスト8でも驚きが少ないのが錦織選手のすごさですよね。
テニスは100位以内は実力的に大差がないとはよく言ったものです。その時のコンディション次第で誰にでもチャンスのあるスポーツです。
グランドスラムでさえ、毎回100何位の誰々が快進撃というニュースをよくみますよね。
それだけ強いメンタルが求められます
今回の錦織選手は特に気迫がこもっています。プレーもリターンを始め、守りという言葉が
一切ありません。
常に攻めて先手をとっているのが功を奏していますね。
次のジョコビッチ戦も勝って頂き、歴史を作ってほしいです。
いや、既に4大大会全てでベスト8以上になったという歴史を作っていました。
歴史といえば、23年前にも日本テニス史に歴史を作った男がいます。
みなさんご存知、松岡修造さんです
おそらく1995年の松岡修造さんの快挙は覚えている方も多いのではないでしょうか?
私も鮮明に覚えています。
それが松岡さんのキャラクターのせいなのか、コートを駆け回って喜びを表現していた姿が印象的だったからなのか今となっては定かではないです。
ただ、当時テニスをしていた私にとっての衝撃は大きかったです。
今となっては松岡さんはあの暑苦しいキャラで有名ですが(笑)、あの長身のダイナミックなフォームから繰り出させるビックサーブを今でも鮮明に覚えています。
サービスゲームではサーブ&ボレーに主軸をおいていましたね。
当時は日本男子テニス会の象徴でしたが、その人生は順風満帆とは言えませんでした。
そもそも彼は慶応幼稚舎に通っていました。いわゆるおぼっちゃんですね。
そこからテニス名門の柳川高校に転校しました。
柳川高校はテニスをしている学生なら知らない人はいません。
名門は名門なのですが、スパルタ教育で有名です。
テニスの実力だけではなく、精神的にも強くなければ生き残れないと言われる中、
そんな環境も楽しめていたのが驚きですよね。
テニスに対する強い思いがひしひし伝わります。
柳川高校在学中にはインターハイでの三冠をはじめ、国内では敵なしと思える成績を残しても自分がプロでやれることを考えたことがなかったようです。
恐らく、世界で活躍する日本人がいなかったからでしょう。
そこから転機があったのはボブ・ブレット氏との出会いです。
そのきっかけで松岡さんは渡米することを決意しました。
渡米後もしばらくはテニスが強くなりたいという一心からテニスを続けていましたが、
プロになるという考えはしばらく持てなかったようです。
松岡さんの決断のきっかけにはブレット氏の言葉が多く関わっていました。
例えば、プロ登竜門のサテライト・トーナメントへの出場もブレット氏の言葉からでした。
結果、松岡さんは勝ち上がりATPポイントを取得しました。
そこで松岡さんは自信を深め、ブレット氏からもプロを勧められたのは有名な話です。
そのあとのご活躍は皆さんご存知ですよね。
プロ3年で世界ランク100位以内になり、1992年のソウル・オープンでは日本の男子選手として初のATPツアーシングルスを優勝しました
その年に自己最高のATPシングルスランキング46位まで上り詰めましたが、そのあとは長期離脱をしていて栄冠からは遠ざかっています。
1995年には皆さんご存知、ウインブルドン8入りを果たしました
錦織選手が飛躍したのはもちろん、自身の才能、努力の賜物ではありますが、松岡修造という良き理解者がいたのも大きかったのではないでしょうか。
松岡さんと錦織選手の出会いは松岡さん主催の修造チャレンジです。
テレビ放映もしていたので知っている方は多いでしょう。
ブレット氏も松岡さん繋がりで、修造チャレンジで錦織選手を指導していましたね。
こうしてみると人と人との繋がり、縁が大事だってつくづく思いますね
それはどんな世界でも言えると思います。どの出会いが自分の転機になるかはわかりません。
1つ言えることは1つ1つの出会いを大事にしていくことではないのでしょうか。